Tako Workschlop

何が不思議か

この年まで生きてきても、どうしても解決できていない謎がある。それは、この世界に数え切れないほどの人間が存在している中で、なぜ「自分からだけ」しか世界を観ることができないのか、という極めて単純で、しかし深淵な問いだ。

ゲーム開発のスクリーンに向かい、GodotやUnreal Engineを操作しているとき、ふと思うことがある。エディタ上では、視点となるカメラを自由に切り替え、任意のキャラクターに「憑依(Possess)」することができる。しかし、現実という名の物理エンジンの中では、私は「私」という単一のハードウェアに固定され、他者へPossessする権限は与えられていない。私たちはなぜ、この不自由な一人称視点にロックされたままなのだろうか。

憑依という第四の次元 もしも、空間のX・Y・Z軸と時間軸のほかに、「憑依」というもう一つの次元が存在したなら、世界はどうなるだろうか。

他者の感覚や記憶に自由にアクセスし、意識のコントローラーを乗り換えることができれば、個と個の結合は爆発的に拡大する。他人の喜びも、絶望も、見ている風景も、すべてが直接的なデータとして流れ込んでくる。その果てに行き着くのは、ユングが提唱した「集団的無意識」の完全な顕現である。無数の意識のネットワークは肥大化し続け、やがて「私」と「あなた」の境界線は溶け落ち、人類というひとつの巨大な精神体へとマージされていく。

秩序の静止と冷徹な墓標 だが、すべての意識が完全に繋がり、ひとつの巨大なプールに還ることは、究極の調和であると同時に「完全なる秩序の静止」を意味する。

高低差や差分(ギャップ)がなくなることで、世界からあらゆる摩擦とノイズが消滅する。葛藤も、未知への渇望も、他者を理解しようとする情熱も、すべては「分離」しているからこそ発生する熱量だ。すべてが統合された集団的無意識の世界には、バグもエラーも存在しない代わりに、いかなる変化も生まれない。その結果、世界は一粒の砂すら動かない、美しくも冷徹な墓標へと姿を変えてしまうだろう。

共有される熱気 そう考えると、私たちが互いに完全にPossessできない不自由さには、システムとしての明確な意味があるのかもしれない。世界が熱的死を迎え、静止した墓標になるのを防ぐために、あえて個別の肉体という閉鎖環境に隔離し、動的なカオスを維持しているのだ。

それでも今日、容赦なく照りつける7月の太陽の下で、私たちはそれぞれの場所で汗を拭いながら「とても暑い」と感じている。決して交わることのない別々の座標にいながら、同じ熱気に辟易とし、同じクオリアを共有している。この、ほんの少しだけ同期した感覚――これこそが、私たちが完全に統合される一歩手前で踏みとどまりながら見せている、ささやかな「集合的無意識」の姿と言えるのではないだろうか。